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イモに宿る母のぬくもり──6歳で被爆した語り部の記憶

「6歳で被爆 イモで思い出す母の顔」

強い日差しの中、静かにたたずむ広島平和記念公園。その中で一人の男性が、被爆者としての記憶を語る。6歳のときに広島で被爆した彼の中には、今も忘れられない母の記憶が刻まれているという。それは、ある食べ物とともに思い出される。「イモ」。ただの食糧ではない。彼にとってイモは、母の温もりを思い出させる、かけがえのない記憶の象徴だ。

この証言を語ったのは、被爆者の語り部として平和の大切さを伝え続けている吉岡幸男さん。被爆した当時、わずか6歳だった吉岡さんが体験した出来事は、想像を絶するものだった。あの日、空がまばゆい光に包まれたかと思うと、周囲は一瞬で火の海になった。逃げ惑う人々、焼け焦げた町、泣き叫ぶ声。その中で吉岡さんは、なんとか助け出された。

当時、吉岡さんの母は、まだ幼い息子を守ろうと必死だった。家が吹き飛び、瓦礫に押しつぶされそうになった中で、たった一枚のゴザに吉岡さんを包み、火の手が迫る中を抱えて逃げ出した。その情景は、今もなお彼の記憶に焼き付いている。

避難先での生活は困難を極めた。住む場所も食べ物も十分ではなかった。中でも忘れられないのが、母が芋を分け合ってくれた日のことだという。当時は配給も乏しく、食糧難が深刻だった。それでも母は、小さなさつまいもの一切れを、息子が少しでもお腹を満たせるようにと渡してくれた。その時に見せた母の笑顔が、今でも胸に焼き付いているのだという。

「さつまいもを見るたびに、あの日の母の顔を思い出す」。吉岡さんの言葉は、胸に深く響く。イモは当時の貧しい食生活を象徴する食物かもしれない。しかし吉岡さんにとっては、母の愛情を感じる手がかりであり、過酷な日々の中でも決して失われなかった人間の温もりを象徴するものでもある。

やがて、吉岡さんは自身の経験を語り始める決意をする。こうした記憶は、語られなければ消えてしまうからだ。同時に、過去の惨禍を二度と繰り返さないためにも、次の世代へ伝えてゆく必要があると感じたからだ。

現在、吉岡さんは被爆体験を語る被爆証言者として、全国各地の学校やイベントで講演を行っている。被爆当時の体験だけでなく、母の愛情や、戦後を生き抜いた家族の姿、そして平和の大切さについても語っている。

「平和は当たり前じゃない。簡単に壊れてしまいます。でも、それを守るのもまた人の力です」。吉岡さんが若者たちに語りかける言葉には、痛みと希望の両方が込められている。

今を生きる私たちにとって、戦争や原爆の記憶はどこか遠くの話に感じるかもしれない。しかし、吉岡さんのように実際に体験した人の語りからは、その痛みと向き合ってきた現実の姿が見えてくる。何でもない日常の中に、母の笑顔があり、夕食のテーブルには家族と分け合う食事がある。それがどれほど尊いことなのかを、あらためて思い知らされる。

イモという一つの食材に込められた物語。それは一人の被爆者の記憶であると同時に、数え切れないほどの人々が経験した戦争と平和の記憶の象徴といえるのではないだろうか。

吉岡さんは、「語ることで、あの日に亡くなった人々の思いを伝えたい」と話す。今も語り部として活動を続ける理由は、そこにある。言葉にならない恐怖、絶望、そして希望。そのすべてを後世につなぐために、語り続けるのだ。

私たちは、このような証言に耳を傾けることで、過去の過ちをただ悔いるだけではなく、そこから何を学び、未来につないでいくかを考えることができる。日常に追われてつい忘れがちな平和の意味。それを思い出させてくれるのが、吉岡さんのような証言者たちの言葉なのではないだろうか。

目の前の一皿に、家族との温かい時間に、そして誰かの優しい笑顔に、かつての記憶と未来への希望が込められている。そう思うと、日常の一つひとつが、とても大事なものに見えてくる。

吉岡さんの語る「イモに込められた母の顔」は、戦争の中で見失いがちな人間らしさ、そして大切なつながりを教えてくれる力強いメッセージである。その思いをこれからも繋いでいくこと。それが私たちにできる小さな一歩なのかもしれない。

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