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土俵に響いた歌声――元増位山大志郎さん、力士と歌手の二つの道を歩んだ75年の生涯

元増位山が死去 歌手としても活躍

2024年6月、元大相撲力士・増位山大志郎(本名・西口茂樹)さんが逝去されました。享年75歳。力士として、そして引退後は歌手や親方としても活躍された増位山さんの訃報に、多くの関係者やファンから追悼の声が寄せられています。

本記事では、増位山大志郎さんのこれまでの歩みに敬意を表しつつ、その生涯を振り返り、相撲界と歌謡界に残した数々の業績に光を当てていきたいと思います。

力士・増位山大志郎としての足跡

増位山大志郎さんは1949年に兵庫県姫路市で生まれました。父は元十両力士で「増位山」と名乗っていた西口茂松さんであり、相撲一家ともいえる家庭で育ちました。少年時代から相撲に親しみ、1965年に高砂部屋に入門。土俵人生を歩み始めます。

1970年代には幕内力士として活躍し、には小結まで昇進。しっかりとした体格と巧みな取り口でファンにも親しまれました。当時の相撲界は輪島、大鵬、北の湖といった名力士が群雄割拠していた時代。そんな中で存在感を示し、自身の持ち味を活かして堅実な成績を残しました。

1974年には同じく力士だった兄弟子・増位山大志郎(初代、元関脇・増位山太志郎)の後を継ぎ、「増位山」の名跡を受け継ぎます。その後、1981年に現役を引退しました。

引退後は三保ヶ関部屋を継承し、親方としても多くの弟子たちを育てました。中でも大関・武蔵丸を支えたことで知られています(武蔵丸は後に横綱に昇進)。指導者としても誠実で厳しく、同時に弟子たちの面倒見も良いと評判でした。

歌手としてのもう一つの顔

増位山さんを語るうえで外せないのが、歌手としての活動です。相撲界では珍しく、現役時代から歌手デビューを果たした人物であり、現在の「力士×音楽」というジャンルを切り開いた存在としても知られています。

1974年に「そんな夕子にほれました」で歌手デビューを果たすと、この曲が大ヒット。穏やかで情感あふれる歌声が注目を集め、以後も「男の背中」や「冬子」などの楽曲を次々と発表しました。その歌唱力は演歌界でも高く評価され、多くの音楽番組にも出演。力士としてだけでなく、歌手としても一流のキャリアを築いた稀有な存在です。

NHK紅白歌合戦にも出場経験があり、相撲ファンのみならず幅広い世代の支持を集めました。歌声に込められた哀愁と温もりは、まさに人柄を反映したものだったと言えるでしょう。

多才なタレント性と人間味

引退後も相撲解説、歌手活動、さらにはテレビ出演など幅広い分野でマルチな才覚を発揮した増位山さんは、その円満な人柄と温かさでも知られていました。訪れる人々への丁寧な対応、後進への惜しみない支援、そして何よりも家族や仲間を大切にする姿勢が、多くの人々に愛される理由だったのではないでしょうか。

また、近年は高齢となりメディアへの露出は徐々に減っていたものの、その穏やかな微笑みと歌声、思慮深い解説が視聴者の心に深く残っています。引退後の生活も穏やかに過ごし、晩年は家族や親しい仲間との交流を大切にされたと報道されています。

増位山さんが残したもの

力士として、親方として、歌手として。そして一人の人間として、多くの人々に感動と笑顔を届けてきた増位山大志郎さん。その生涯を通して、努力、謙虚さ、そして人情味あふれる人生を歩まれました。

これまで相撲界や歌謡界をはじめ、さまざまな分野で活躍した増位山さんの功績は、今後も多くの人に語り継がれていくことでしょう。その存在は、相撲ファンや演歌ファンにとっての「心の拠り所」であり、「昭和・平成・令和」をつないだ文化的象徴とも言えます。

ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

心に残る名言とメッセージ

最後に、増位山さんが現役時代、あるインタビューで語った言葉をご紹介します。

「土俵の上では強くあらねばいかん。でも土俵を一歩出たら、優しくあらねばいかん。」

この言葉には、競技には厳しく人には優しく、という増位山さんの信念が詰まっています。勝負の世界の厳しさと、それを支える人間性。このバランスこそが、彼の魅力だったのではないでしょうか。

これから先、彼のような温かさと品格を持った力士や歌手がまた登場することを願うとともに、彼の残した軌跡を私たちは忘れずに胸に刻んでいきたいと思います。

合掌。