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旧統一教会の解散命令裁判、東京高裁が審理本格化へ:信教の自由と公共性の境界が問われる歴史的節目

2024年6月14日、東京高等裁判所は、大きな注目を集めていた旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の解散命令をめぐる司法判断に関し、新たな段階に進んだことを告げる重要な決定を下した。文部科学省が昨年10月、宗教法人法に基づき、旧統一教会に対し「著しく公共の福祉を害する行為があった」として東京地方裁判所に解散命令を請求したことを受け、裁判所は今日、被告である旧統一教会側に対し、文科省提出の証拠の一部について反論や意見を提出するよう初めて正式に求めたのである。

これは、日本国内で宗教法人に対して「解散命令」が下される可能性が現実的に進展していることを示す重大な節目である。宗教法人法において、裁判所が宗教法人の解散を命じるには、「著しく公共の福祉を害する行為」があったことが司法的に認定されることが必要不可欠であり、これは極めて厳格な要件を満たさなければならない。日本の司法史上においても、真如苑など、過去に解散命令が請求された数は極めて限られる。そして今回、長年社会的な議論の的となってきた旧統一教会に対して、裁判所が事実関係の審理に本格的に踏み込んだことは、歴史的な意味を持つと言えるだろう。

この問題がここまで注目されるようになったきっかけは、2022年7月に発生した痛ましい事件にさかのぼる。元海上自衛官の山上徹也被告が、奈良市内で演説中の安倍晋三元首相を銃撃し、その後死亡させた。山上被告は動機として、自らの母親が宗教団体に多額の献金を繰り返した結果、家庭が破綻したことに加え、その宗教団体—すなわち旧統一教会と安倍元首相の関係性を疑念の中で結びつけたことを供述している。事件は全国に大きな衝撃を与え、旧統一教会と政界との関係性を問う声が一気に高まった。

こうした背景のもと、政治家や元信者、被害者団体などから多くの証言が相次いで提出され、文部科学省は長期にわたる調査の末、2023年10月に旧統一教会に対する解散命令の請求に踏み切った。この請求は、かつてないほど厳しい社会的関心を呼び、旧統一教会側も強く反発。現在も、宗教法人としての正当な活動を主張しつつ「献金は信者の自由意思に基づいて行われたものであり、不法行為は存在しない」とする立場を崩していない。

このような状況の中、裁判において被告である旧統一教会側の代理人として名を連ねるのが、著名な弁護士として知られる南 雅彦(みなみ・まさひこ)氏だ。南弁護士は東大法学部を卒業後、最高裁判所の司法研修所を修了し、1990年代より弁護士として活動を開始した。その後、多くの宗教団体や公益法人の法的アドバイザーを務めるようになり、宗教法人法に関する実務にも精通している人物である。これまで宗教法人に対する行政処分の適法性を争う訴訟にも数多く関与しており、旧統一教会のように、解散命令が求められるような”特殊な宗教法人”の擁護に関しても高い専門性を持つとされている。

一方で、被害者側の支援に立ち上がっているのが、日本弁護士連合会の元副会長であり、消費者被害救済の第一人者としても知られる紀藤正樹(きとう・まさき)弁護士だ。紀藤弁護士は長年にわたり、悪質商法や詐欺的勧誘に苦しむ市民の被害救済に尽力してきた。旧統一教会によるいわゆる「霊感商法」の被害者からの集団訴訟を数多く担当し、その過程で得られた証拠や証言は、文部科学省による今回の解散命令請求においても、極めて重要な材料とされた。

紀藤氏は、1990年代からオウム真理教や統一教会といったカルト的宗教団体に対する監視・批判活動に取り組んでおり、彼の活動によって救われた被害者は数千人にのぼるとも言われる。また、報道番組や講演活動などを通じて、一般市民への啓発活動にも積極的に取り組み、信教の自由という憲法上の基本的人権と、それを悪用する形での過剰な献金勧誘などの実態解明のバランスをどう取るかという、極めて複雑な問題と対峙してきた。

東京高裁が今回、旧統一教会側に「反論の提出」を求めたことは、すなわち、今後裁判所が証拠や証言を直接的に評価し、最終的な決断に向けて本格的な判断を下していくフェーズに入ったことを意味している。今後は、被害者の証言、過去の判例、旧統一教会内部資料などが精密に検討され、その行為が「著しく公共の福祉を害した」といえるかどうかが司法的に問われることになる。

判決が最終的に下されるまでには、おそらく数カ月以上の時間がかかると見られるが、今回の高裁の判断は、そうした長い法廷闘争の中でも重要な「起点」となるだろう。日本において、宗教と法、信仰と統治の関係性は常に繊細な問題である。信教の自由を保障する一方で、社会に害悪を及ぼす活動を放置してはならないという国家としての責任もある。まさにそのバランスが、今回の司法判断の本質的な課題であり、歴史的な意義を持つ。

この先、旧統一教会の裁判を通じて、私たちは法と宗教、個人の自由と社会の公共性の間にどのような線を引くべきなのか、再び根本から問い直すべき時を迎えている。そして、それは単なる宗教団体の問題ではなく、私たち一人ひとりの生活や価値観に深く関わるテーマでもあるのだ。