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「土俵の哲人・東桜山が引退──32年貫いた相撲道と感謝の言葉」

2024年、相撲界にまた一つの歴史が幕を下ろしました。1992年に初土俵を踏み、それ以来32年間にわたって土俵に立ち続けてきた最古参力士の引退が正式に発表されました。この力士の名前は東桜山(とうおうざん)ですが、長年にわたり「千代の海 美登」にも親しみを込めて知られており、南九州を代表する力士として地元をはじめ多くのファンに愛され続けてきました。

この記事では、彼の歩んできた相撲人生を振り返りながら、日々進化する大相撲界における“継続”と“情熱”の重みを改めて感じていただけるようにまとめました。

32年の力士生活に幕。東桜山、感謝の言葉で締めくくる

東桜山が初土俵を踏んだのは1992年春場所。当時、まだバルセロナ五輪すら開催されていない時期でした。それから実に32年間、千秋楽のその日まで鍛錬を欠かさず、黙々と自らの力士道を歩み続けました。

引退時の番付は三段目の下位。大関や横綱といった最高位に到達することはなかったものの、彼が長年にわたって醸し出していたその存在感は、まさに“土俵の哲人”とも言えるものでした。長きにわたる現役生活の理由の一つには、「相撲が好きでやめられなかった」という本人の情熱的な言葉があります。たとえ名誉ある地位にたどり着けなくとも、自らの相撲を貫き、足元から相撲界を支えるその姿は、多くの若手力士の手本ともなっていました。

少年時代から相撲道 一筋

鹿児島県出身の東桜山は、小さな頃から相撲道を志していました。「千代の富士に憧れていた」とは、若かりし頃に残した彼の言葉。中学卒業と同時に相撲部屋に入門し、若干15歳で土俵に上がる決断をしたその姿勢に、相撲を目指す若者たちの原点が詰まっています。

彼が在籍した九重部屋は、かつて名横綱千代の富士が率いたことで知られ、歴史と伝統のある相撲部屋です。稽古の厳しさでは天下一品とも称されるこの部屋で、数々の先輩たちと切磋琢磨し、持ち前の粘り強さで力士人生を着実に重ねてきました。

心身を支えたのは家族とファンの存在

長い力士生活の中には、当然ながら怪我や不調の時期もありました。しかし、そんな困難を乗り越える上で支えになったのが、家族や地元・鹿児島の応援団、そして何よりも全国の相撲ファンの存在でした。

彼が出場する地方巡業では、東桜山の名前入りの応援旗を掲げるファンの姿がよく見られました。30年以上応援を続けてきた方の中には、「番付に関係なく、真面目で一生懸命な東桜山の姿が好きだった」と語る人も。業績以上に人の心を動かし続ける力士であったことが伺えます。

引退会見でも東桜山は、「ここまでやってこれたのは、たくさんの方の支えがあったから。心から感謝している」と、感慨深げに語りました。

これからの人生へ、新たな挑戦を胸に

引退後の進路については現在検討中と伝えられていますが、「相撲界に何らかのかたちで恩返しがしたい」と語る東桜山。その言葉には、自らの経験を次世代に伝えたいという気持ちが強く感じられました。

また、東桜山は若い力士たちとのコミュニケーションを大切にし、指導や助言にも力を尽くしていたことでも知られており、現役引退後も後進育成の場での活躍が大いに期待されます。

ネット上には「お疲れさまでした」「本当にありがとう」「長く現役を続けるだけでも素晴らしい」といった感謝とねぎらいの言葉が多数寄せられており、東桜山がいかに多くの人に愛されていたかを物語っています。

相撲という舞台で一途に生きた力士

東桜山が歩んだ32年間の軌跡は、地味だが確実に日本相撲の一部となって刻まれました。世代交代が加速する中、技術だけでなく誠実さや根気といった“人としての力”が次第に見直されている昨今。現代の私たちに、東桜山のような“継続と誠実”の精神が、少しずつでも未来に受け継がれていくことを願わずにはいられません。

華やかな成績やタイトルに注目が集まる相撲界において、東桜山のように息長く地道な努力を重ねた力士こそ、きらめく星のような存在です。新しい人生の門出を迎えた彼に、多くのエールがこれからも届き続けることでしょう。

これからの人生第二章に、幸あれ。

そしてなによりも—東桜山、お疲れさまでした。