元大関・朝乃山が角界に投じる「熱」と「涙」──相撲人生の試練を乗り越えて
熱気が渦巻く大相撲の土俵――その中で、泥臭くも真っ直ぐな相撲で多くのファンを魅了してきた力士がいる。2024年5月場所、4年ぶりに角番を脱し、本来あるべき場所へと再浮上しつつある男、元大関・朝乃山(あさのやま)こと石橋広暉が帰ってきた。
新大関昇進から一転、コロナ禍の規定違反による謹慎、番付降下、幕下への転落——幾重もの試練を乗り越えた朝乃山の姿は、単なる一力士の物語にとどまらず、いま多くの人々の心を揺さぶっている。
■富山が誇る力士、プロ入りまでの道のり
石橋広暉は、1994年3月1日、富山県富山市で生まれた。身体が大きくなるにつれその才能が開花し、富山商業高校、近畿大学と相撲の強豪校で研鑽を積んだ。大学時代には全国学生相撲個人体重別選手権大会で優勝するなど、その実力は広く知られるようになっていた。
大学卒業後、満を持して入門したのが、高砂部屋。2016年春場所で初土俵を踏み、2017年夏場所には新十両、そして翌年には新入幕を果たす。その後、破竹の勢いで番付を上げていき、2019年夏場所では初優勝。翌年の2020年7月場所後、大関昇進を果たす。富山県出身力士としては102年ぶりの快挙だった。
その姿は地元富山の英雄ともいえる存在であり、若者たちにとっては夢を形にしたロールモデルでもあった。
■失意の謹慎と「消えた大関」
しかし、絶頂の最中に試練が訪れる。2021年5月、新型コロナウイルス感染対策のガイドラインに違反して外出したとして、日本相撲協会から6場所出場停止という厳しい処分を受ける。
協会の信頼を損ない、角界を混乱させた責任は重かった。この決定により、大関の地位を失い、番付は幕下まで落ち込む。一時は現役続行の可否すら囁かれたが、朝乃山は引退を選ばなかった。
この時期、彼が語った「土俵に戻って恩返しをしたい」「もう一度力士として、やり直したい」という言葉には、潔い覚悟と並々ならぬ情熱が込められていた。
■復活の道のりと「本当の強さ」
謹慎明けとなる2022年7月場所、幕下付け出しとして復帰した朝乃山。相撲の内容を見れば一目瞭然、格が違った。幕下15枚目での7戦全勝、翌場所の十両でも圧巻の相撲で幕内返り咲きは時間の問題だった。
ただ、彼自身が最も悔しさを感じたのは「過信」だったという。大関になった自分に何か特権があるかのように錯覚してしまっていた――この一言には、当時の自身への反省が込められている。
そして、2023年以降の取組では、以前よりもはるかに相手力士を尊重し、一番一番に魂を込める姿勢が見てとれている。その姿に、ファンは魅せられた。派手さはないが、手堅い立ち合い、前に出る圧力、最後は力で押し切る朝乃山らしい相撲が戻ってきた。
■今場所で語った「涙の理由」と大関復帰への執念
2024年5月場所には、4年ぶりに「大関とり」が見えてくるほどの好成績。13日目までに10勝をあげ、来場所に向けて大きな弾みをつけた。だが、取組後の朝乃山の目には涙があった。目指していたのは、ただ「勝つ」だけではない。その奥には、支えてくれた家族、恩師、部屋の仲間、そして“信じて待ってくれた”ファンへの感謝が満ちていた。
「あの時、自分がつまずいたのは、必要な経験だったのかもしれません。今なら、あの出来事があったからこその自分がいると思えるんです。」
そう語った朝乃山の表情には、以前にはなかった強さと深さがあった。
■“もう一度大関へ”ではない、“本当の大関に”
現在、30歳を迎えた朝乃山。再び大関の座を目指しているが、本人の口からは「以前より格段に気持ちが整っている」と語られる。年齢的には若手と呼べる時期は過ぎているが、相撲の世界ではここからが熟成期。本当の意味での強さと向き合い、相撲道を全うしようとする姿勢は、まさに「角界の鑑」と言えるだろう。
同時に、朝乃山のような力士が存在することで、相撲の世界がどれほど厳しくも温かいものであるかを、私たちは知ることになる。過ちを犯せば厳しく罰せられる。だが、反省し、努力を積み重ねれば、もう一度這い上がることが許される——そんな「赦し」と「成長」の物語。
その物語は、相撲という伝統に育まれながら、今日も幕を開ける土俵の上で続いている。
2024年、朝乃山は再びファンの前で躍動している。地元・富山に笑顔を、全国の相撲ファンに感動を届けるその姿は、まさに「新たな大関像」として私たちの記憶に刻み込まれていくだろう。