“感動の復帰劇――村田兆治さんの甥、西宮悠介が語る「マサカリ投法」継承への想い”
2024年5月、甲子園で開催された春季高校野球大会に一人の若き選手が注目を浴びました。それは、かつて昭和の大投手として球史に名を刻んだ「マサカリ投法」の継承者として名乗りを上げた西宮悠介(にしみや・ゆうすけ)さん、17歳。彼は、惜しくも2022年に亡くなった伝説の野球選手、村田兆治(むらた・ちょうじ)さんの甥にあたります。この春、彼が自身の登板で見せた荒々しいが躍動感ある投球フォームは、まさに昭和を代表する剛腕・村田兆治さんの面影を宿していました。
西宮さんが通うのは鹿児島県内の強豪校・鹿児島中央高校。自身は2年生ながらも背番号1を背負い、エースとして躍動を見せています。その投球フォームは一風変わった独特の投げ方で、まさに「マサカリ投法」と呼ばれた村田兆治さんのスタイルを彷彿とさせるもの。右足を高く上げて落とし込むようなフォームには、力強さと華麗さが共存し、スタジアムの観客から歓声が湧くほど。また、父の影響を強く受けて野球を始めた西宮さんですが、父の兄である村田兆治さんが亡くなったことが、大きな転機だったと本人は語ります。
「おじさんが亡くなった時、全部やめようかと思った。だけど、あの人の野球への情熱やひたむきな姿勢に背中を押されるように思い直しました。今は、自分なりに“マサカリ”を継ごうという気持ちがあります」
村田兆治さんといえば、通算215勝の記録を持ち、昭和を代表する投手としてプロ野球界の中でも頂点に立った存在。1970年代後半から1980年代を通じてロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)のエースとして君臨し、“マサカリ投法”という異名を持つ独自の投げ方で知られています。右足を高く掲げ、振りかぶるように投げ込むその姿は、当時の子供たちから絶大な人気を博し、後に活躍するダルビッシュ有や田中将大といった現代のスター選手にも影響を与えたことで知られています。
また村田さんは、1982年に当時では珍しい「トミー・ジョン手術(肘の靱帯再建手術)」を日本人投手として初めて受け、その後の復活という劇的なストーリーもまた多くのファンの記憶に深く刻まれています。手術後、自らの粘り強さと努力で1985年には最多勝を記録し、36歳で堂々のカムバックを果たした功績は、プロ野球に限らず、現代のスポーツ医療の発展にも寄与したと評価されています。
そんな村田さんの意思を受け継ごうとしているのが、西宮悠介さん。現在の投手としては珍しいほど起伏の激しいフォームを用いていますが、それゆえに制球を乱すこともあり、地元メディアや評論家たちからは「フォームが独特すぎて安定感に欠ける」との指摘もあります。しかし西宮さんは、そのすべてを受け入れたうえでこう語ります。
「制球が悪くてもいい。魂を込めて投げたい。ただ投げるんじゃなくて、おじさんみたいに“見る人の心を揺さぶるピッチャー“でありたいんです」
技術も大切だが、それ以上に見る人の記憶に残る投手でありたいという思い。これは親族でなければ抱きにくいほどの覚悟と敬意が根底にあります。
また、村田兆治さんが生前、最も大切にしていたのは「野球道」と呼ばれる精神性。村田さんは現役を退いた後も野球教室や講演会などで全国を回り、子どもたちに「技術よりも心。心がなければ球は走らない」という信念を伝えてきました。西宮さんはまさにその「野球道」の実践者となろうとしており、グラウンド外での振る舞い、礼儀作法、自己管理といった面でも、村田さん譲りのストイックさがひしひしとにじみ出ています。
指導する鹿児島中央高校の監督も、「悠介は村田さんそっくり。芯が強くて、己を信じられる子。どんなに負けてもまた立ち上がってくる」と話すように、将来的にはプロ入りを果たす可能性を大いに秘めています。
そして今回の春季大会で見せた8回16奪三振の熱投は、まぎれもなく多くの野球ファンの心を揺さぶりました。「あの投げ方は、まさにマサカリだった」「時代が変わっても、DNAは生き続ける」とSNSでも称賛の声が上がるほど、西宮さんの投球は強烈な印象を残しています。
今後について聞かれた西宮さんは、「おじさんの記録はとてつもなくて追いつけない。でも、目標はただ一つ“人の記憶に残る選手”になること」と純粋なまなざしで語ります。
時代が違えども、一人の伝説が残した熱が、今再び若者の身体を通して蘇ろうとしています。“マサカリ投法”は死なず、それを受け継ぐ者は確かにここに息づいている。この春、甲子園のマウンドに現れた一人の若者の投球は、過去と現在、そして未来をつなぐ大きな旋律となり、多くの野球ファンの胸を熱くし続けています。