広島に原爆が投下され、街が焼き尽くされた惨劇の日。その日を境に人生を一変させた一人の女性がいます。彼女の名は松岡ミツエさん。原爆によって両目の視力を失いながらも、5人の子どもを育て上げた母親です。壮絶な被爆体験と、視力を失った後の人生、そして限りない母の愛の物語が、今、多くの人々の心を打っています。
見えなくなっても、母としての使命は失われなかった
原爆投下時、松岡さんは当時28歳。警戒警報が解除され安堵した直後、突然の爆風と閃光が広島の空を引き裂きました。彼女が作業していた場所は、一瞬にして崩れ落ち、猛烈な爆風で飛ばされた木材の破片が顔に直撃。彼女の両目は、視力を取り戻すことなく失明しました。
それでも5人の子どもたちを育てることを諦めませんでした。夫を戦争で失い、両親や親族の多くも亡くした中で、支えとなったのは「誰が育てるのか、私しかいない」との強い信念でした。視覚を失うというのは、日常生活のあらゆる面で大きな困難を意味します。特に当時の日本では、今ほど視覚障害者への支援が行き届いていなかった中、5人の子どもを育てるという決断がどれだけ勇気のいることだったかは想像に難くありません。
「熱い」「暗い」「怖い」という言葉ばかり発していたという子どもたちの様子から、原爆が引き起こした人体や心への傷の深さも痛感させられます。その中で、ミツエさんは、自らの痛みよりも子どもたちの安寧を優先し、生き延びるための知恵と強さを振り絞りました。過酷な状況でも、泣き言を言わず、前だけを見て進み続ける母親の姿はまさに「生きる力」そのものです。
記憶を語り継ぐことの大切さ
現在、松岡さんの体験は、足跡をたどるようにして残された証言や、子どもたちが記録として保存した内容によって語り継がれています。その中で多く語られるのは、ミツエさんが肉体的、精神的につらい時期でも、自分の姿を「かわいそう」とは決して言わなかったということです。
「生きていてこそ」という信念を持ち続けた母の言葉は、困難に直面したときの人間のあり方に重要な示唆を与えてくれます。「見えなくなった」ではなく、「見えなくてもできることを探す」。その姿勢が、多くの人々、特に同じように苦難の中で生きる現代の人々にとって、大きな希望となっているのです。
また、この記事では視力を失った後にミツエさんがどのように暮らし、どのように家事や育児をこなしていったのか、その細やかな工夫や子どもたちとの連携も紹介されています。家の中の物の位置を頭の中で完全に把握し、子どもたちにも「どこに何があるかを動かさないように」と協力してもらいながら生活を成り立たせていったことなどは、視覚障害者としての生活スキルだけでなく、家族としてのチームワークの大切さも学べる部分です。
心に刻まれる母のまなざし
人は目が見えなくても「まなざし」を持つことができる、ということをミツエさんの体験は教えてくれます。そのまなざしとは、物質的なものではなく、心で見つめ、心で感じ、心で支えようとする意思のこと。どんなに未来が不透明でも、どんなに景色が見えなくなっても、心の目を通して「生きたい」「守りたい」「育てたい」という強いエネルギーを持ち続けたからこそ、彼女は5人もの子どもを立派に育て上げることができたのです。
今の世の中、情報が溢れ、未来が見えにくいと感じる人も多いかもしれません。将来への不安、自分の存在意義への問い、誰にも頼れない孤独──そんな思いを抱える人にとって、ミツエさんの生き方は、深い勇気と安心を与えてくれることでしょう。
言葉や視覚を超えて届けられるもの
松岡ミツエさんの人生は、被爆者としての事実にとどまらず、「人は逆境をどう生きるか」「母とは何か」「支え合いとは何か」といった普遍的なテーマを投げかけてくれます。戦争の悲劇を知るために、あるいは平和の大切さを改めて考えるために、彼女の物語を知ることは非常に意味があります。しかしそれに加えて、人生で壁にぶつかったとき、自分の可能性を信じられなくなったとき、人のぬくもりが恋しくなったとき、このような実話に心を触れさせることは、生き方を問うきっかけになり得ます。
「もし私だったら、どう生きただろうか」。視力を失ってもなお、子どもと暮らしを守ろうとした一人の母の命の重みは、我々の想像を遥かに超えたところで語りかけてきます。
最後に
松岡さんのように、日々を懸命に生き抜いた人々の物語は、ただの記録ではありません。それは、今を生きる私たちの背中をそっと押してくれる、ささやかな光です。「あなただったらどう生きる?」と問いかけながら、人の可能性、生きる力、そして愛の深さを教えてくれます。
見えない瞳の奥にあったもの。それは、子どもたちを生きさせるために注がれた揺るぎない愛と、人間としての尊厳でした。松岡ミツエさんの生涯を通して、私たちが改めて気づくべきなのは、「見えるもの」よりも、「見えないけれどたしかにそこにあるもの」の大切さなのかもしれません。