日本の「温泉」を世界へ──伝統資源の新たな挑戦
四季折々の自然に抱かれながら、心と身体をあたためる「温泉」は、日本人にとってあまりにも身近な存在です。何世紀にもわたり、日本の人々は自然の恵みである温泉を利用し、癒しを得てきました。しかし近年、この古くからある日本の文化的資源を、経済的資源として“輸出”しようという新たな動きが始まっています。
「温泉の輸出」と聞くと、湧き出るお湯自体を海外に持っていくというイメージを抱くかもしれませんが、実際にはもっと広義です。日本式の温泉文化を、技術やサービス、温泉のコンセプトとして世界へ広めることで、国際的なビジネスチャンスを創出するという試みです。そしてこの挑戦には、日本の企業や地方自治体が協力し、新たなかたちで“温泉の力”を世界に届けようとする熱意が込められています。
この取り組みをリードするのは、大手不動産会社の「大和ハウス工業」です。同社は日本の温泉文化がもつ健康・美容効果やリラクゼーション効果、さらには独特の建築様式や「おもてなし」の精神に注目。2023年、中国・上海に120以上の温泉を体験できる複合型施設「蘭湯温泉(らんとうおんせん)」を開業しました。この施設は「日式温泉」と「和の癒し」をテーマに設計されており、単にお湯につかるだけでなく、畳や木を多用した内装、作務衣での館内利用、和食レストランなど、日本独自の癒しの文化を体験できる空間となっています。
これにより、現地の人々にとって温泉が単なるレジャー施設ではなく「心身の健康を保つライフスタイルの一部」として受け入れられる可能性を持ち始めているのです。開業直後から多くの利用客が訪れ、特に20代から30代の女性層に人気とのこと。健康志向や癒しのニーズが世界的に高まる中で、日本の温泉文化が新たな切り口で注目を集めているのです。
もちろん、温泉の海外展開といっても、日本とは異なる環境や文化、規制などの壁があります。例えば温泉水そのものの輸出や現地調達の難しさ、水質や設備の基準、さらには宗教的・文化的な入浴習慣の違いなど、乗り越えるべきハードルは多岐にわたります。しかしだからこそ、「温泉とは何か」「日本の温泉文化が持つ価値とは何なのか」を改めて問い直し、現地の文化と調和させながら提供する工夫が求められています。
このような取り組みは、単純なビジネス戦略にとどまりません。地方の温泉地が抱える課題――高齢化や観光客減少、経済活動の縮小といった問題――に光を当て、日本各地に眠る温泉資源の価値を見直すきっかけにもなっています。たとえば、ある地方都市では、海外からの観光客向けに英語や中国語の案内表示を整備したり、ヴィーガン対応の温泉宿を設けたりと、多文化を受け入れる努力が着実に進んでいます。
さらに、温泉の“効果”という観点からも注目が集まっています。温泉には天然のミネラルが含まれており、血行促進、美肌効果、筋肉痛や肩こりの緩和など、さまざまな健康サポートが期待できます。これらは科学的にも徐々に明らかになりつつあり、ヘルスケアやウェルネスといった切り口で温泉が「予防医療」の一翼を担う可能性も出てきました。
実際、日本では「温泉療法」や「湯治(とうじ)」という言葉がある通り、古くから温泉地に滞在しながら体調を整えるという文化が根付いています。そうした知恵は、現代社会のストレスや健康不安が高まる中で、世界中の人々に求められるコンテンツへと進化するかもしれません。
一方で、現地に温泉文化を適応させるには、環境配慮にも気を配る必要があります。大量の水資源を使う施設の設計、地元住民との協調、持続可能な採取やエネルギー利用など、地域社会との共生が成功のカギを握ります。日本の温泉文化は自然との調和に根ざしているからこそ、よりサステナブルな形での輸出が求められるのです。
温泉は自然と人、人と文化をつなぐ懸け橋です。入浴という行為を通じて得られるリラックスや癒しは、言語や国境を超えて人々に感動を与える力があります。今、日本が世界に向けて発信しようとしているのは、単なる「お湯」ではありません。そこに込められた歴史、文化、哲学ともいえる価値観を、丁寧に伝えていくことが大切です。
日本の「温泉輸出」という新たな挑戦は、単なる観光ビジネスの枠を超えて、国際的な文化交流や健康促進、地域活性化といった多面的な意義をもっています。この先どのように展開していくのか、そしてどれだけ多くの人々が日本の温泉文化に触れ、癒されるのか──その未来に注目が集まります。
温泉が私たちにくれるのは、ただの温かいお湯ではありません。日々の疲れを包みこむようなぬくもり、自然と一体になれるような感覚、そして「また来たい」と思わせる心地よさ。そんな日本の温泉文化が、これから世界中に広がっていく。その姿は、日本という国の新たな魅力を伝える大きな一歩と言えるでしょう。