奈良・東大寺の北に位置する正倉院は、聖武天皇ゆかりの貴重な宝物を約8,000点以上も収蔵する、日本を代表する文化財収蔵施設です。8世紀に建てられた校倉造(あぜくらづくり)の建築様式を今に伝える正倉は、日本建築や文化財保護の歴史を語るうえで極めて重要な存在ですが、今回あらたに注目されたのは、正倉院正倉が想像以上に豊かな“虫の楽園”であったという驚きの調査結果でした。
この記事では、正倉院の建物そのもの、そしてその中に息づく多様な虫たちの存在についての最新の研究と、そこからわかる自然との共生、文化財の保管と生態系のバランスについてご紹介します。
■1300年前の建築が今も現役で活躍している驚異
正倉院正倉は、奈良時代の代表的建築様式である校倉造によって築かれています。これは、三角形に削った木材を横に積み上げることで壁面を構成する構造で、柱と板を使わずに強度と通気性を確保する日本独自の建築技法です。この構造が、1000年以上の時の流れの中で宝物を湿気や外的環境から守る要因の1つであり、現代に至るまで修復を繰り返しながら奇跡的にその姿をとどめています。
そして、その校倉造の特性がもたらす通気性は虫たちにとっても理想的な環境となっていることが、今回の研究調査で明らかになりました。
■虫が住んでいた!?調査で明らかになった“虫の楽園”
奈良文化財研究所が行った今回の調査では、正倉院正倉の床下や建物内に暮らしている生物たちに焦点が当てられました。その結果、驚くことに37種類にものぼる昆虫が確認されたのです。
中でも多かったのは、ヒラタキクイムシやチャタテムシ、シバンムシといった木材や紙を食べる虫たちで、宝物保存の観点からはやや懸念される存在でもあります。しかし同時に、コオロギやクモといった他の虫を捕食する生物も一定数確認され、正倉内の限られた空間にも小さな生態系が形成されていることがわかります。
なかには、新種の昆虫やこれまでこの地域で見つかっていなかった種類も含まれており、正倉院が豊かな生物多様性を保持している貴重な空間であることが浮き彫りとなりました。
■なぜ虫たちが集まるのか? 正倉の構造と立地がカギ
虫たちが集まってしまう要因として、まず第一に挙げられるのが建築様式です。校倉造は前述のとおり、木材を積み上げて空気の通り道を確保し、湿気がこもらないようになっていますが、その隙間が小さな虫たちにとっては格好の住処になっているのです。
さらに、正倉院が位置する奈良公園周辺は自然豊かな環境で、奈良の山々に近く、多様な昆虫が生息する自然環境が整っています。このような条件が“虫の楽園”を成立させる背景となっていたと考えられています。
■宝物に影響はあるのか?対策と研究の両立
虫たちの存在は、生態学的には非常に興味深く、また歴史的建造物と自然との共生関係の一端を示すものですが、文化財にとっては重大な脅威でもあります。
特に、紙・絹・木製の宝物をかじる虫たちは、わずかな被害からでも修復困難な損失につながる可能性があるため、奈良文化財研究所などでは定期的な環境調査を通じて室内環境の維持や防虫対策を講じています。
今回の調査結果も、今後の保存・管理に役立てられる予定です。たとえば、従来使われてきた燻蒸(くんじょう)処理や微小環境モニタリングを継続しつつ、新たな防虫技術の検討や、虫が侵入しにくい建築的工夫なども視野に入れられているとのことです。
■歴史的建築物と自然との共存の意義
虫の存在は時に不快なものとして捉えられがちですが、今回の研究を通して見えてきたのは、正倉院正倉が長年にわたって自然と密接に関わり合いながら存在してきた“生きた建築物”であるという事実です。建物そのものが周囲の自然と調和し、その中に小さな生態系が築かれているという点は、現代の建築や文化財保存の考え方に大きな示唆を与えてくれます。
また、生物多様性の重要性が世界的に取りざたされる今、1,300年前の建物の中で37種類もの虫が共存していることは、「人間の営みと自然との共存」が実現していた貴重な実例ともいえるでしょう。
正倉院のような文化財を守るためには、人為的な管理だけでなく、その場所ならではの自然環境を正しく理解し、活かすことが重要です。生態系の一部としての虫の役割に目を向けることで、文化財と自然環境、そして人間生活の在り方を改めて考えるきっかけとなります。
■終わりに
「正倉院正倉が虫の楽園だった」という今回の調査結果は、ともすれば意外に感じるかもしれませんが、この事実の奥には建築、保存、自然との関係など、様々な視点から学ぶべき要素が詰まっています。
1300年の時を越えて今でも現役で文化財を守り続ける正倉は、それ自体が日本の誇るべき「生きた遺産」です。そこに存在する虫たちもまた、私たちが見過ごしがちな自然との共存の重要性を静かに語ってくれています。
文化財の保存と自然とのバランスを取りながら、未来の世代にもこの貴重な遺産を伝えていくために、科学の目と人の想いがこれからの正倉院を支えていくのです。