漫才コンビ「四天王」ジェット・大友さん追悼──惜しまれる相方の死と笑いの絆
2024年6月、長年にわたり日本のお笑い界を支えてきた漫才コンビ「四天王」の一員、ジェット・大友(おおとも)さんが逝去されたという報せが、多くのファンや芸能関係者の間に深い衝撃と悲しみをもたらしました。その訃報を受け、相方であるジェット・西山さんが追悼のコメントを発表し、二人が共に歩んできた長い歴史と、コンビとして築き上げてきた絆が改めて注目されています。
この記事では、「四天王」およびジェット・大友さんの功績を振り返りながら、彼らが笑いに捧げた人生、そして相方としての関係性を見つめ直し、大友さんの遺したものに思いを馳せます。
■「四天王」とは何者だったのか──地方から全国へ広がった人気
漫才コンビ「四天王」は、1980年代から1990年代にかけて関西を中心に活躍した実力派コンビです。コテコテと称される王道の関西漫才に、新しさを織り交ぜたスタイルで知られており、鋭いツッコミと緻密なボケの応酬により、老若男女問わず幅広いファン層を獲得していました。
ジェット・大友さんは主に「ボケ」を担当し、どこか抜けているようでいて計算し尽くされた「間」と「表情」の妙が特徴でした。演芸番組だけでなく、バラエティ番組、テレビドラマなどに進出する中で、コンビとしての知名度は急速に全国区となっていきました。
■突然の訃報──相方・ジェット西山さんの想い
ヤフーニュースによれば、大友さんは長年にわたる持病と闘っていたとのことで、療養中の静かな最期だったようです。享年は68歳。現役を退いてからも、ジェット・西山さんとは頻繁に連絡を取り合っており、妻や家族とも親交を深めていたとのことです。
西山さんの追悼コメントにはこう綴られています。
「大友とは本当にいろいろな舞台に立った。笑顔を届けるという、ただそれだけを信じてやってきた仲間です。もう少し一緒に笑いたかった。ありがとう、大友」
その言葉からは、舞台で長年呼吸を合わせてきた“相棒”というだけでなく、人間として深く信頼し合ってきた関係性がうかがえます。
■「一緒に笑いたかった」──コンビの絆とは何か
お笑い芸人という職業は、笑いを届ける裏で自身の苦悩や矛盾とも日々向き合う、過酷な道のりでもあります。特にコンビ芸人の場合、お互いが同じ方向を向いていなければ成立しない芸術のようなものです。
「四天王」の二人は、一度は一線を退いた後も、年に数回のイベントに出演したり、地元の商店街のイベントに顔を出したりと、細々ながら活動を続けていました。これは、純粋に「笑いが好き」「お客さんとつながっていたい」という思いがあったからこそだといえます。
西山さんもコメントの中で、「最後まで笑わせようとしてくる大友だった」と語っています。これはおそらく、病床の中でも見せたユーモアや、最後まで芸人としての“魂”を持ち続けていた証とも取れるでしょう。
■世代を越えて受け継がれる「芸」の価値
SNSを中心に、大友さんの訃報を偲ぶ声が全国から寄せられています。とくに1990年代に彼らの活躍をリアルタイムで見てきたファンにとっては、その笑いが青春の思い出でもありました。
「初めて見た漫才が四天王だった」という声や、「親と一緒にテレビで笑った記憶が蘇った」といったエピソードが散見され、大友さんの存在がいかに多くの人の心に残っていたのかを実感させられます。
近年、YouTubeやSNSなどデジタルメディアの発展により、「過去の放送」が簡単に再生できる時代となりました。そうした環境もあって、若い世代の中にも彼らの芸を今なお新鮮に感じる人が少なくありません。
■ありがとう、そしてさようなら──笑いと共に生きた人生
笑いとは、辛いときほど強く求められるものです。その笑いを生む芸人たちは、自らの経験や日常を題材に人々の心に語りかけます。ジェット・大友さんはまさに、そうした「人間としての温かさ」がにじみ出る芸人であり、その表現力の高さは世代を越えて支持されてきました。
長年連れ添った相方・西山さんからすれば、彼との別れは家族を失うようなものかもしれません。しかし、今後彼が語り部のように大友さんとの思い出や舞台裏を紐解いていけば、多くの若い芸人や次の世代にも貴重なメッセージとして受け継がれていくでしょう。
■おわりに
私たちは、ひとりの芸人の死を通して、ただその人の芸風や実績だけでなく、「人と人とのつながり」や「笑いとは何か」という原点にまで立ち戻ることができます。
ジェット・大友さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。そして、その足跡を今後も記憶し続け、後世へとつないでいくことが、私たちファンにできる最大の供養であり、感謝の表現なのかもしれません。
いつまでも忘れません。笑顔をありがとう。