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言葉の力を問う政治の現場――「古古古米」発言が映す国会の品格と責任

衆議院本会議での“古古古米”発言に小泉進次郎氏が言及 ― 誰もが考えるべき「言葉」の重み

2024年6月27日、国会で交わされたあるやり取りが、社会に大きな波紋を広げました。立憲民主党の原口一博衆議院議員が衆議院本会議の中で使用した「古古古米(ここここまい)」という表現が注目を集め、小泉進次郎元環境相がそれに対して「非常に残念」とコメントしたことが報じられました。

この発言は、単なる言葉選びの問題にとどまらず、国の最高意思決定機関である国会における言動の意味、政治家の社会的責任、そして国民との信頼関係を考えるうえでの大切な機会とも言える出来事です。

この記事では、「古古古米」発言の背景や小泉氏の発言をもとに、言葉が持つ影響力と、民主主義社会における政治家の役割について考えてみたいと思います。

「古古古米」発言とは何だったのか?

まずは、原口一博議員の「古古古米」発言について触れておきましょう。この言葉は6月26日の衆議院本会議で、新たに発足する内閣人事に関連して投げかけられた表現でした。言葉の意味としては、穀物の分類で「古米(こまい)」や「古古米(ここまい)」という用語になぞらえ、経験・年齢を重ねた政治家ばかりを揶揄する比喩的表現として使われたようです。

しかしながら、こうした表現は一部の人々にとっては事情を的確に言い表した痛烈な比喩に映る一方、別の側面からは年齢や経歴の多寡を否定的に捉えているとも受け取られ、決して公の場で適切とは言えない議論を誘発するものでもありました。

これに対して、小泉進次郎氏が「非常に残念な発言だった」と率直に述べたのは、その表現が政策論争よりも人物への印象づけに終始していた点や、政治家として敬意を欠くと映った点を鑑みてのことでしょう。

政治家の言葉に求められる価値とは

近年、SNSの普及により、政治家の一つひとつの発言が瞬時に一般に拡散され、評価され、場合によっては強い批判を招くようになりました。それだけに、政治家は言葉に対する高い責任感が求められます。

政治家の役割は主に、「政策の立案・実行」と「国民との対話」とに大別されます。その中でも、国民との対話の中核をなすのが言葉です。一言一句に込められる意味がある中で、言葉には「信頼形成」「価値観の共有」「思いやりの表現」など、社会の土台を支える役割があります。

時に政治家の発言がウィットに富んでおり、ユーモアをもって聞かれることに魅力を感じる国民も多いでしょう。しかし、それと「相手を傷つけるような言葉」との線引きには非常に細心の注意が必要です。

「古古古米」というユーモアに見える表現が、「人生経験を否定している」「高齢者に対する偏見・蔑視がある」など、受け手によっては決して軽い話では済まされない場合もあります。

真に必要とされるのは「批判」よりも「建設的提案」

政界において意見の相違は当然のことです。異なる政党が多様な価値観を持ち、議論によってより良い政策を形にしていくのが民主主義の根幹です。ですが、昨今の政治論争では「相手陣営を揶揄する」「印象操作に終始する」という場面も少なくありません。

今回の件も、政策論争そのものの焦点を浴びせるべき本会議の場で、的確な政策批判や代替案の提示ではなく、言葉による「攻撃」を戦略としてしまった印象を持つ人が多いようです。

小泉議員が述べた「非常に残念」という言葉には、批判の有無よりも「今こそ政治家は政策で勝負すべきだ」という思いが込められていたのかもしれません。

政治のパフォーマンス性と本質追求のバランス

近年、政治家の言動がメディアを通じて瞬時に可視化されるようになり、「目立つ言い回し」や「強い論調」に注目が集まる風潮もあります。しかし、それは本来的には政治の本質ではありません。

私たち国民が真に知りたいのは、「政治家がどのような未来を描いているのか」「どのような政策で日々の生活をよくしようとしているのか」という点にあります。たとえ、政治的経験が長い人であろうと短い人であろうと、そこに年齢や経歴による評価を重ねるのではなく、「どのようなビジョンと実行力があるか」で判断したいものです。

また、若い世代の政治への関心を育てるためには、政治家が真摯に政策を語り、互いにリスペクトしながら議論を深めていく姿こそが、教育的価値を持ちます。

国民と向き合う政治の姿勢を

昨今の日本社会は、高齢化、経済成長の鈍化、国際関係の変化など、複雑な課題が山積しています。加えて、若い世代は将来への不安も大きく、政治に対する信頼の再構築が求められています。

そうした中で、国会は単なる「議論の場」ではなく、国民の信頼を築き、共に未来を構想するための場所です。政治家一人一人が自らの発言の影響力と責任を認識し、自らの言葉で政策を語り続けることが、長期的には政治そのものへの信頼を高めることへとつながります。

今回の「古古古米」発言のように、言葉選び一つで大きな議論を呼ぶ時代においてこそ、私たち市民もまた、政治家の発言をジャッジするだけでなく、「どうすればより建設的な議論がなされるか」を一緒に考える姿勢が求められているのかもしれません。

おわりに

「言葉は刃にもなれば、橋にもなる」と言われるように、その使い方によって人を傷つけたり、つなげたりします。政治家が語る言葉は、国を動かす重みを持つものです。

今回の出来事は、政治家という立場にある人々のみならず、社会全体が「言葉の使い方」とその影響について再認識する契機となったのではないでしょうか。

私たちが求めるのは、誰かを貶めるための言葉ではなく、未来を語るための言葉です。そして、すべての政治家に期待したいのは、そのような言葉を選び取る誠実さと、国民と共に未来を築く覚悟にほかなりません。