2024年、第二次世界大戦の終結からおよそ80年が経過した今、日本各地では戦争の記憶を次世代へと伝える努力が続けられています。その中でも、特に注目されたのが、戦艦「武蔵」の元乗員である米盛富美男さん(102歳)の証言です。彼が語るのは、生死が分かれた戦艦「武蔵」での運命と、それから長い歳月を生き抜いた日々。そして今、語り部として伝えようとする平和への強い想いです。
戦艦「武蔵」は、大日本帝国海軍が建造した世界最大級の戦艦のひとつで、姉妹艦「大和」とともに日本海軍の象徴的存在でした。戦況が厳しさを増す中、1944年10月24日、フィリピン・シブヤン海にて、米軍による空襲を受け沈没。乗員2399人のうち、1121人が命を落としました。
米盛さんはその生存者の一人。彼は、当時20代前半という若さで、技術兵として「武蔵」に搭乗していました。数百機もの航空機による激しい爆撃の中、何度も船体が揺れ、空が真っ黒に覆われるほどの爆風を経験。そんな極限の状況下にあって、彼は命からがら生還を果たした数少ない一員です。
語るも涙、聞くも涙——米盛さんの証言は、戦艦が沈みゆく中、仲間たちが「お母さん」と叫びながら海中に吸い込まれていく姿、その声、その表情をまざまざと思い出すところから始まります。助かりたかった。もう少しだけ生きたかった——そう言い残していった仲間たちの言葉は、今なお彼の心から離れません。
沈没後、海をさまよいながらも救助され、そこから戦後の生活が始まりました。復員後は地元・鹿児島で新たな生活を築いた米盛さん。時代も変わり、平和な日常が戻ってきましたが、戦争で命を落とした仲間たちのことは、一日たりとも忘れたことはないと言います。
現在、彼は102歳。耳は遠くなったとはいえ、記憶は鮮明で、語り部として子どもたちに自身の体験を伝えることに力を尽くしています。「戦争の悲惨さを知ってほしい。二度とこんなことがあってはならない」と、平和の尊さを力強く語ります。
毎年夏になると、全国で戦争の犠牲者を追悼する行事や活動が行われます。しかし、戦争を直接体験した世代が高齢化し、年々その語り部の数は減っていきます。その中で102歳という高齢にもかかわらず、自らの体験を語り続ける米盛さんの存在は非常に貴重です。
戦艦「武蔵」は、2015年に沈没地点がフィリピン沖で発見され、再び注目を集めました。その時、米盛さんの証言が再評価され、現代の私たちに戦争と平和を考える機会をもたらしました。
今、多くの若者は戦争を「教科書の中の出来事」としてしか知らないかもしれません。けれども、米盛さんのような実際の語り部の存在は、歴史を「生きた現実」として伝える非常に貴重な役割を果たしています。彼の話を聞いて、「もし自分だったら」「自分の家族だったらどうしたか」と心を動かされる人も少なくありません。
私たちが教科書で学ぶことができるのは、数字や出来事、国際的な動きなどの「事実」に過ぎません。確かにそれも大切ですが、実際にその場にいた一人の「人間」としての感情や苦しみ、そして生き延びた者が背負う使命のようなものは、生の声を通してしか知ることができないでしょう。
米盛さんのような方が今も現存し、その口で体験を語ってくれるということは、奇跡に近いと言えるかもしれません。戦争という極限の中で生き残った命が、今平和な時代にあっても、過去をしっかりと語り続けてくれる。その姿勢に、私たちは深い感謝の気持ちを抱かざるを得ません。
102歳という年齢になってもなお、「もう一度、生きて帰れなかった仲間の名前を読んであげたい」「一人でも多くの人に、あの日の真実を知ってもらいたい」と語る米盛さん。その目には、戦友への深い哀悼と、未来へのやさしくも力強いまなざしが宿っています。
この記事を読んでいる私たちは、今、とても幸運な時代に生きています。爆音の中で目覚めることもなく、空襲の恐怖に怯えることもなく、当たり前のように朝を迎え、ご飯を食べ、仕事や学校へ出かけることができます。その「当たり前」が、どれだけ貴重で、どれだけ多くの犠牲の上にあるものかを、今一度心に刻みたいと思います。
米盛富美男さんの証言は、重く、深く、そしてかけがえのないものです。私たちは彼の語る「事実」と「思い」をしっかり受け止め、自分の生活や社会との向き合い方を見つめ直す契機とすべきでしょう。そして、その思いを今度は私たち自身が次の世代に伝えていく責任があるのです。
「もう戦争はいらない」「平和であってほしい」——この、誰もが願う当たり前の言葉を、真に守るためには、ただ「聞く」だけではなく「考える」「伝える」ことが求められます。その一歩を、まずは今日、この記事を読んだことから始めてみませんか。