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「暴露の代償──配信者逮捕が突きつける“自由”の責任」

「暴露系」配信者を逮捕 恐喝疑い──インターネット社会と表現の自由のはざまで

インターネットを通じて個人が自由に情報を発信できる現代において、SNSや動画配信サイトは新たな表現の場として、私たちの生活に深く根付いています。そんな中で台頭してきたひとつのジャンルが「暴露系」と呼ばれるインターネット配信です。芸能人や有名人、企業や団体などが隠していたとされる情報を公の場で暴き、視聴者に衝撃を与える内容をリアルタイムで配信するスタイルは、時に正義の行使として受け止められる一方、その手法の妥当性や倫理性については議論を呼んでいます。

そうした「暴露系」配信者の一人がこのたび、恐喝の疑いで逮捕される事件が報道されました。2024年6月18日、警視庁は著名なインターネット配信者である男性を、恐喝未遂の疑いで逮捕したと発表しました。この配信者は、ある芸能関係者に対して「過去のスキャンダルを暴露されたくなければ金銭を支払え」といった趣旨の要求を行ったとして、警察に摘発されたものです。

このニュースは、インターネット上だけでなく社会全体に大きな衝撃をもたらし、瞬く間に話題となりました。表現の自由と人権の尊重をどのように両立させるべきか、多くの人々が考えざるを得ない問題を突きつけています。

■ 暴露系配信者とは何か?

「暴露系」とは、その名の通り、他人のプライベートや裏事情などを暴露し、視聴者の興味を引くことを目的とした配信を行うスタイルのことを指します。こうした配信者たちは、自身が入手した情報や、時にはインターネットユーザーから提供された噂話をもとに、世間の注目を集めるコンテンツを制作してきました。

一部の配信者は、ジャーナリズムにも似たスタンスを取り、芸能界のスキャンダルや企業の不正などを追及することで、社会的に意味のある告発を行っていると主張しています。実際、内部告発者からの情報をもとに、世間にとって重要な事実が明るみに出るケースも存在しました。

しかし同時に、確認が取れないままの情報を過剰にセンセーショナルに報じたり、対象者に取材の機会を与えずに一方的に誹謗中傷を加えたりするような例もあり、決して一枚岩ではありません。

■ 表現の自由とその限界

日本国憲法第21条では、「言論、出版その他一切の表現の自由」は保障されています。しかしながら、どのような自由にも限界が存在します。特に他人の名誉やプライバシーを侵害する言動が法律に抵触する場合、たとえ正当な意図があるとしても責任が問われることになります。

今回の事件では、配信者が金銭を要求した点が大きな問題とされました。犯罪行為に該当する恐喝とは、「暴力または脅迫によって、人に義務のないことを行わせる行為」にあたります。たとえそれが言葉による脅しや、過去の過ちを暴露することをちらつかせて相手に圧力をかけるという形であったとしても、その行為が相手に精神的な負担を与え、しかも対価の提供を求めるのであれば、恐喝行為と見なされる可能性があります。

今回のケースでは、配信者が「情報を公開されたくなければ金を支払え」と言った趣旨の発言をし、これが捜査当局により恐喝未遂と判断された模様です。言論の自由の名のもとに行った行為であっても、被害者にとっては精神的苦痛や名誉の棄損に繋がり、さらに犯罪とされればその責任は免れません。

■ 視聴者のリテラシーも問われる時代

暴露系コンテンツに人気が集まる背景には、視聴者の「真実を知りたい」「裏側を見たい」という強い欲求があります。日常を離れた刺激的な物語は、エンターテインメントとしての魅力をもって受け入れられることもあります。しかし、それが他人の名誉を踏みにじった上で成立しているのであれば、果たしてそれは健全な情報消費の形と言えるのでしょうか。

視聴者としての私たち一人ひとりにも、情報を見極めるリテラシーが求められます。スマートフォン一つで、誰もが発信者にも受信者にもなれる現代において、読んだ情報が正しいのか、あるいは一方的に作られたものなのかを考える習慣を持つことは非常に重要です。

また、配信者側も、自身の発言によってどのような反響が起こり、どのような影響を周囲に与えるのかを冷静に考える必要があります。インターネットには投稿の自由がありますが、その自由には常に責任が付きまとうことを、忘れてはなりません。

■ 健全な情報社会の構築に向けて

今回の「暴露系」配信者の逮捕というニュースは、単なる一人の配信者の不祥事として片付けるべきではなく、現代社会において情報と人権がどのように交差するかを考える契機とするべきでしょう。私たちが望む情報社会とは、誰もが安心して暮らしながらも、多様な意見や事実が健全に流通する社会であるはずです。

健全なインターネット空間を守るためには、法律の整備やプラットフォーム運営企業の取り組みはもちろんのこと、各利用者の意識と行動が大きな意味を持ちます。批判や告発が必要な状況があるのもまた事実であり、そうした発信が正義に基づいている限り、社会的に果たす役割は大きいといえます。

だからこそその発信が、“誰かを傷つけること”によって成り立つものであってはなりません。情報が人を救うこともあれば、逆に人を追い込む道具になってしまうこともある。私たち一人ひとりがそのことを意識し、濫用ではなく、慎重な活用を心がけることこそが、これからの社会に求められる素養と言えるのではないでしょうか。

インターネットの未来は、利用する私たち次第です。エンタメとしての刺激や話題性に流されることなく、健やかで公正な情報空間を一緒に育てていきましょう。