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消えゆく春の記憶 ― 小学生が見つめた山菜のいま

かつては当たり前に見られた自然の恵みが、今、静かにその姿を消しつつあります。今回取り上げるのは、日本の春の風物詩として親しまれてきた“山菜”と、それを取り巻く環境の変化に心を痛める子どもたちの姿です。

「毎年消える」山菜 ― 悲しむ小学生たち

春先になると、ふきのとう、ぜんまい、こごみ、タラの芽など、山菜は日本各地の野山に姿を現します。古くから続く食文化として、人々はこの自然の恵みを楽しみにしてきました。山菜摘みは大人たちだけでなく、子どもたちにとっても春を感じる大切な行事として親しまれてきました。しかし近年、その山菜たちの姿が年々少なくなっているというのです。

先日、岩手県北上市の小学校で行われた授業では、地域の自然を学ぶ一環として、児童たちが山に入り山菜を観察する機会がありました。例年であれば、あちらこちらに山菜が見られる季節のはず。しかし今年、多くの子どもたちは「去年よりも数が少ない」と驚きの声を上げました。

授業のあとに行われた振り返りの時間。ある小学生は、昔から楽しみにしていたタラの芽が見つからなかったことにショックを受けたと語り、「山菜がなくなっていくのが悲しい」とノートに綴っていました。

山菜が年々姿を消している背後には、いくつかの要因があります。

一つは、気候変動の影響です。冬季の積雪量や気温が山菜の発芽や生育に大きく影響するため、環境の変化が山菜の育成に悪影響を与えています。春の訪れが早くなったり、急激な気温の変化があったりすることで、従来のようなタイミングで山菜が芽を出さないこともあるのです。

また、山の荒廃も要因の一つです。少子高齢化に伴って山林の管理が行き届かなくなり、道が整備されないことで人々の手が届かなくなった山には、野生動物が増えたり、雑木が茂ったりして、山菜が育つ環境が変化しています。

さらに、山菜の過剰採取も問題視されています。需要の高まりにより商品として大量に採取されることで、自生している山菜が再生できる前に枯れてしまう例も少なくありません。

こうした現状に、地域の大人たちも対応を考えつつあります。たとえば、昔ながらの知恵を活かして、地域住民と学校、自治体が協力して山の環境保全を行う取り組みが始まっています。一部の地域では、山菜の苗を自ら育てて植える活動も行われており、自然のサイクルを取り戻す試みが続けられています。

岩手県北上市のこの小学校でも、子どもたちが感じた「山菜が消えてしまう」という危機感を大切にし、地域と連携した自然再生や環境教育を続けていく方針です。子どもたちの素直な気づきと感性が、大人たちにとっても改めて自然との向き合い方を見つめなおすきっかけになっていると言っても過言ではありません。

「ふきのとうを初めて見たときの感動を他の友だちにも伝えたい」――そんな小さな声が、未来の自然を守る大きな力になるかもしれません。

山菜の減少は、単に季節の味覚が失われていくというだけではありません。私たち人間と自然との関係において、いかにバランス良く共生していくかを問われているサインです。

身近な自然に目を向けながら、子どもたちと一緒に、これからどんな未来を描いていけるのか。山菜の姿がまた当たり前に見られるような春が戻ってくることを願いながら、私たち一人一人ができる行動を考えていかなくてはなりません。

自然との対話は、子どもだけのものではありません。むしろ、自然を知る大人がその知恵と経験を伝えることで、次の世代が生きる世界に優しさと豊かさを引き継ぐことができます。

山菜が毎年のように消えていく現実の中、悲しむ小学生たちの気持ちを真摯に受け止め、私たちもまた「変わるべき時」に差しかかっているのかもしれません。山菜が咲き誇る野山を未来へつなぐために、小さな一歩を大切にしたい。そんな思いが、日本中に広がっていくことを願ってやみません。