2024年6月、長野県松本市の松本駅構内にある老舗の駅そば店「山野草」が、その122年の歴史に幕を下ろすこととなり、多くの人々が別れを惜しんで集まりました。かつての松本駅駅舎とともに歩んできたこの駅そば店は、通勤客や観光客の空腹を満たし、心を温め続けた”地域の味”として、長年にわたり愛されてきました。
閉店を知らせるニュースが流れると、連日、開店前から長蛇の列ができ、遠方から駆けつけるファンも絶えませんでした。なぜこれほどまでに多くの人が集まったのでしょうか。そこには、駅そばという食文化に根付く日本人の郷愁、そして人々と店舗の間に築かれた深い絆がありました。
老舗の重み、そして変わらない味
「山野草」は、1902年(明治35年)にその前身となる駅そば店の営業を始めました。当初は立ち食いそばの形態で、通称「一杯のそば」で知られていたこの店舗は、何世代にもわたる人々の生活に密着してきた存在です。現在の店舗は2002年に改装され、「山野草」という名前になりましたが、変わらない味と温かい接客、そしてどこか懐かしい雰囲気は健在でした。
特に人気だったのは、「かき揚げそば」や「山菜そば」など、長野県の自然の恵みを取り入れたメニュー。立ち食いながらも、丁寧に仕上げられた出汁と香り高いそばは、多くの人々の記憶に刻まれています。なかには、「学生時代に食べたあの味が忘れられない」と語る年配の方、「旅行のたびに必ず立ち寄っていました」と言う観光客も。単なる“食事”ではなく、“想い出”とともに味わう一杯でした。
駅という場所が持つ特別な意味
駅そばが特別なのは、その立地にも理由があります。旅の始まりと終わりの場所にある「駅」。そこは再会、別れ、新しい挑戦、日常の繰り返し——人々の人生の転機や継続とともに存在する空間です。駅そばは、その中で一息つける、そして背中をそっと押す存在でもありました。
松本駅の「山野草」も例外ではありません。出勤前のサラリーマンが急いでかき込む朝の一杯。部活動の遠征に出かける高校生が仲間と一緒に笑顔で食べた忘れられない味。地方から出てきた息子を見送りに来た老夫婦が、ちょっと立ち寄って食べた温かいそば。
それぞれの”個人の物語”が、この一店舗に集約していたのです。そう考えると、今回の閉店が”一つの店の終わり”ではなく、”多くの思い出に区切りがつく日”だったということがわかります。
なぜ閉店に至ったのか
残念ながら、閉店の理由として挙げられているのは後継者不足や設備の老朽化、駅構内のテナント再編成など、いくつかの現代的な課題です。全国の地方都市でもよく聞く話ではありますが、それでも老舗店の閉店は地域にとっても大きな損失です。
このような問題は「山野草」に限った話ではなく、全国の駅弁屋、立ち食いそば店、昔ながらの定食屋などで日々起きている現実です。高齢化社会において、味や技術を次世代に継承するための人材が不足している現状。地元に根付いた飲食店が消えていく風景は、どこか切なく、そして考えさせられるものがあります。
閉店当日の風景——思い出が交錯した日
閉店日当日。朝早くから多くのお客さんが並び、その中には、常連の通勤客はもちろん、かつて松本駅を利用していた県外の人や、家族連れ、年配のご夫婦の姿もありました。「閉まると聞いて、どうしても最後に食べたくて来た」という方も多く、美味しさだけでなく、心動かされる一杯として、皆が味わっていました。
中には、手紙を持参して店員さんに渡す方や、「ありがとう」と何度も繰り返す人の姿も。また、店からは利用者へ向けて、感謝の言葉とともに閉店のお知らせが掲げられ、心温まる雰囲気に包まれていました。
多くの人々がスマートフォンで店先を写真に収め、それをSNSに投稿しながら、「#ありがとう山野草」「#松本駅の思い出」などのタグがトレンド入りするなど、インターネット上でも大きな話題となりました。
過去ではなく、記憶になる味へ
お店は無くなっても、そこで過ごした時間や味覚の記憶は決して消えることはありません。人は、そんな”記憶の場所”を心に持って生きていくものです。旅行先で食べた駅そばを、故郷を離れても懐かしく思い出し、またあの味を追い求めて近い味の店を探してみたり、自分で作ってみたり。そんな繋がりが、味を受け継いでいくヒントになるのかもしれません。
また、今回の閉店を通して、改めて地域に根ざした食文化や、小さな店が持つ大きな力に気付かされた方も多かったことでしょう。私たちが日常的に利用している近所の定食屋、パン屋、商店街の八百屋さん——それらもまた、ひとたび閉店・廃業のニュースが流れると、もう一度訪れておけばよかったと思うものです。
さいごに
「山野草」の閉店は、時代の流れの中で生まれた一つの区切りでありながら、多くの人々の心に確かな余韻を残して去っていきました。創業122年という長い時間を、ただそばを作るだけでなく、人と人、人と街、記憶と日常をつなげてくれたこの店。
その温かな役割に、心から感謝の拍手を送りたいと思います。そしてこれからも、私たちは”身近な大切な場所”を忘れず、味わい、記憶しつづけていきたいものです。
ありがとう、山野草。あなたのそばは、確かに人々の心に生き続けます。