2024年6月、株式会社KADOKAWAの角川歴彦氏が、自ら経営の一線から退く決断を表明した。このニュースは出版業界だけでなく、日本の文化産業全体に衝撃を与え、各メディアが速報で報じる大きな話題となった。
角川歴彦――その名前は戦後日本の出版史を語るうえで欠かすことのできない存在だ。株式会社KADOKAWAといえば、日本最大級の総合出版社であり、書籍・雑誌・アニメ・映画といった幅広いメディアを手がける文化の発信拠点。それを礎から築いたのが、今回退任を発表した角川歴彦元会長である。
角川歴彦氏は1943年、東京で生まれた。彼の父は、戦後間もなくして株式会社角川書店(現KADOKAWA)を創業した角川源義。父・源義氏は詩人、編集者、出版者として著名であり、文学と大衆性の融合を志向する独特の出版哲学を持っていた。その血を受け継いだ歴彦氏は、大学卒業後、父の後を継いで出版の世界に足を踏み入れる。
1975年、父の他界に伴い、角川書店の二代目社長に就任。彼が若干32歳で指揮をとったとき、業界関係者の誰もがその動向に注目した。若き社長が掲げたビジョンは、従来の紙媒体にとどまらず、メディアミックス戦略による「コンテンツの多層的展開」だった。特に象徴的なのは、彼が発展させた「メディアミックス」という概念だ。これは、小説、アニメ、映画、ゲームなど、異なるメディア同士の連携によって、一つの作品世界を広範囲に、そして深く展開させるというものである。
この戦略の象徴ともいえるのが、1980年代に展開された角川映画事業だ。作家・森村誠一の小説を原作とした「人間の証明」(1977年)や、横溝正史の「犬神家の一族」など、出版物の映像化と映画のメディアミックス展開は、まさに角川歴彦氏の先見性のあらわれだった。彼は「読んでから見るか、見てから読むか」というキャッチコピーで、映画と書籍のクロスプロモーションを巧みに打ち出し、読者と観客の両方を巻き込んでいった。
やがて角川書店は、アニメやゲーム分野にも進出し、日本のコンテンツ産業の先駆者へと成長する。90年代には、ライトノベル市場を形成した「スニーカー文庫」、そして後に生まれる「電撃文庫」など、若年層をターゲットにした出版戦略が功を奏し、新たな市場を開拓した。これらの取り組みは、日本のポップカルチャーが世界に浸透する下地を作るものであり、クールジャパン戦略とも呼応した。
特筆すべきは、角川氏のイノベーションへの意欲である。2010年代に入ってからも、出版不況、デジタル化、SNS普及という困難な時代の中で、KADOKAWA社は電子書籍市場拡大への対応、インターネット動画配信、eスポーツ、VTuberといった新興領域にも果敢に挑戦した。その中心には常に角川氏の「次を見据える視点」があった。
しかし、その華やかなキャリアの中でも、人生は順風満帆ではなかった。2006年には自社株のインサイダー取引疑惑から一時的に社長を退任するも、その後、グループ再編の統括者として社長に復帰。コンテンツホルダー間の提携をしなやかにつなぎながら、KADOKAWAをメディア総合企業へと進化させた。2013年にはドワンゴとの経営統合によって「KADOKAWA・DWANGO」を設立し、ニコニコ動画との連携を強化しつつ、ネット世代への影響力を倍加した。
だが、それほどの人物であっても、時代のうねりには逆らえない。2022年には東京オリンピック・パラリンピックをめぐる汚職事件において、KADOKAWAが関与したことが発覚し、社の信頼は大きく揺らいだ。2023年、角川氏はこの責任を取る形で取締役を退任し、さらに一連の反省を込めて経営からの完全撤退を2024年に表明した。
今回の退任にあたり、角川歴彦氏は「人生の節目を迎えた」と語り、今後は文化を支援する立場で静かに見守る決意を明かした。彼の言葉からは、喧騒の中にあっても「文化に対する愛情」だけは一貫していることが伝わってくる。
その姿は、華麗な実績に彩られながらも、「出版」「映像」「ゲーム」そして「デジタル」といった異なる分野を横断した一人のメディアアーキテクトとして、日本のコンテンツ業界に確かな足跡を残した人物そのものだった。
角川歴彦氏の退任は、一つの時代の終わりを象徴しているかもしれない。しかし同時に、日本のコンテンツ産業には、彼が蒔いた無数の種がいま花開きつつあり、その影響はこれからの世代にも続いていくだろう。彼の情熱と理念は、かつて彼を追いかけた若者たちが、今度は文化の担い手となって新たな未来を紡ぐ礎となるのだ。