2024年6月、日本の将棋界において歴史的ともいえる新たな金字塔が打ち立てられた。将棋八冠・藤井聡太竜王(21歳)が、大阪市内で行われた第9期叡王戦五番勝負の第5局において伊藤匠七段(21歳)を破り、シリーズ3勝2敗で叡王のタイトルを防衛した。これにより、藤井は前人未踏の「八冠」を維持し続けることに成功し、日本中の注目を再び集めている。
今回の叡王戦は将棋ファンにとって非常に興味深いシリーズだった。両者共に現在の将棋界を象徴する新時代の旗手であり、同年代でありながらタイプの異なる棋風と個性を持つ。藤井聡太八冠と伊藤匠七段、同時期に棋士となり、互いに切磋琢磨してきたライバルの存在は、現代将棋の新たな物語を紡ぐ上でも重要な位置を占めている。
藤井聡太は2002年生まれ、愛知県瀬戸市出身。幼少期から将棋に親しみ、2016年に史上最年少となる14歳でプロ入りを果たした。当時から「天才少年」として注目を浴び、2017年には29連勝を記録し嵐のような旋風を巻き起こした。その後も快進撃は続き、2020年には棋聖位を、以後も王位、叡王、竜王などのタイトルを次々に獲得。2023年には遂に八大タイトルを同時に制覇し、「八冠王」という前人未到の偉業を達成した。
棋風としては詰将棋で鍛えられた緻密な読みと正確無比な終盤力、さらにAI時代に即した柔軟な構想力を併せ持ち、そのどれもが高次元で融合する。感情を表に出さず、常に冷静沈着に盤上と向き合う姿勢もまた、彼が「将棋の申し子」と呼ばれる所以である。
一方、今回の挑戦者である伊藤匠七段もまた、将棋界期待の若き才能だ。2002年生まれ、東京都世田谷区出身。幼少期から将棋に親しみ、2020年にプロデビュー。若手棋士として台頭し始めた頃から、“藤井世代のライバル”として注目を集めてきた。2023年にはタイトル初挑戦となる叡王戦で藤井にぶつかったが、このときは0勝3敗で敗退。しかし、その敗北を糧に実力・経験共に一段と成長し、今回の五番勝負では最終局までもつれる接戦を演じた。
第5局はその両者の才能と勝負勘がぶつかり合った名勝負となった。序盤は伊藤七段の用意した工夫のある作戦が冴え、藤井への挑発とも受け取れる大胆な構想が展開された。中盤までは互角の形勢が続いたが、終盤に入り藤井八冠が得意の寄せでじわじわと差を広げ、最後は冷静沈着に読み切っての勝利。まさに「終盤の怪物」とも言われる藤井の本領発揮という内容だった。
将棋における叡王のタイトルは比較的新しいものではあるが、その挑戦形式や注目度、さらにはAIや現代戦術の最先端を行く頂上決戦としてもファンの人気が高い。今回の7時間超の死闘は、まさに現代将棋の神髄を感じさせる一局であり、その重さを知るからこそ藤井八冠は対局後のインタビューで「大変なシリーズだった。互角の戦いで五分五分のところで踏みとどまれたのが良かった」と穏やかに語る一方、快心の勝利ではなかったことも認めた。
叡王戦におけるこのシリーズの価値は、結果以上にその“内容”と“物語性”にある。初のタイトル戦でストレート負けを喫しながらも、わずか1年で再び挑戦の舞台に立ち、成長した姿を見せた伊藤七段。そしてその挑戦に真摯に応えるかの如く、全力で防衛に臨んだ藤井八冠。このふたりの物語は始まったばかりだ。
また、ファンや関係者の間では、今回の対局を通して「世代交代から新たな王朝の時代へ」という声も聞かれる。藤井時代の盤石さが改めて証明された一方で、次世代の伸び盛りの棋士たちが虎視眈々と頂点を狙い始めている。伊藤匠のように実力を着実に伸ばしつつ、タイトル戦で藤井に迫る者が既に現れつつあり、将棋界はこれからさらなる群雄割拠の時代を迎えるかもしれない。
一方で、藤井聡太という存在の偉大さは、ますますその輝きを増している。彼はすでにすべてのタイトルを獲得し、「王者」としての座を不動のものとしながら、その態度や姿勢からは決して驕りが感じられない。謙虚さ、努力、探究心。そして、どれだけ偉業を成し遂げてもひとりの棋士として飽くなき成長を追い求めるその背中は、多くの人々に感動と希望を与えている。
これからも打ち続けられる両者の対局に、日本中の将棋ファンの視線が集まることは間違いない。今回の叡王戦五番勝負が日本将棋史に刻むものは、単なる数字や記録を超えた、「ライバルが高め合い、未来を切り拓く物語」である。そして、それはまさに将棋本来の魅力――勝敗を超えた“掛け替えのない時間”そのものだといえるだろう。
藤井聡太という稀代の才人と、それに食らいつき真っ向から挑む伊藤匠。21世紀の将棋は、いまこのふたりを中心に、新たな黄金時代へと歩み始めている。