2025年、フジテレビが打ち出した新たな番組方針「“楽しくなければ”からの脱却」は、現代の多様化するメディア環境において、テレビという伝統的メディアがどう変化しようとしているのかを象徴している動きです。今回はこの方針の背景と意図、そして今後のテレビ番組制作の方向性について、視聴者目線で考察していきたいと思います。
■ フジテレビと言えば「楽しくなければテレビじゃない」
かつて「楽しくなければテレビじゃない」がキャッチフレーズとして認知され、バラエティーやドラマで高視聴率を記録してきたフジテレビ。1980年代から90年代にかけては、明石家さんま、お笑い第三世代などの個性的なタレントを前面に出し、圧倒的な人気を築いていました。娯楽性に重きを置き、それが多くの視聴者に受け入れられてきたのは事実でしょう。
しかしながら、時代の流れとともに「楽しいこと」が持つ意味合いは変わってきました。コンテンツが多様化し、情報発信のプラットフォームがテレビからSNSやYouTubeへと広がる中で、「楽しさ」はより主観的で複雑なものに。従来の「笑える」「明るい」という価値観だけでは、全てのニーズに応えられなくなってきています。
■ 社長自らが語る“脱却”の理由
4月に行われた定例会見において、港浩一社長は、「これからのテレビは“楽しい”よりも、人生の立ち止まり方や、生きる意味を考えるような番組が求められている」と語りました。いわゆる「楽しい=軽い」「お笑い中心」という一辺倒な娯楽から脱却し、もっと視聴者の心に寄り添うような、人間味やドラマ性のある番組作りを目指していく姿勢が見て取れます。
もちろん「楽しい番組」が悪いわけではありません。それは今も根強いファンがおり、一定のニーズがあります。ただし、それだけに留まらず「意味のある情報」や「感情に訴えかけるストーリー」を届けることも、テレビの重要な役割の一つとして受け止め直そうというメッセージです。
■ 変わる時代、変わるメディアの役割
テレビが持つ役割は、単なる娯楽提供から、教育的な意味や社会的な影響力にまで広がっています。例えば、災害時の報道や特集番組、また人間模様を描いたドキュメンタリーなどは、「楽しい」以上に視聴者の心を揺さぶります。
最近では、社会問題や働き方、生き方の多様性を真正面から取り上げるドラマや情報番組が脚光を浴びています。たとえば、若者の貧困、性の多様性、高齢者の孤独など、決して明るい話題ではないものの、「自分ごと」として受け止められるコンテンツの需要が高まっているのです。
港社長が目指す「人生を見つめなおす番組制作」は、こうした変化にきちんと呼応したものであり、「楽しい」だけでは満たされない“心の居場所”をテレビが作っていく、という新たな使命感の現れと言えるかもしれません。
■ 具体的な番組展開への期待
現時点では具体的な番組名やコンセプトの全貌は明かされていませんが、フジテレビは長年、斬新な切り口の番組で業界をリードしてきた実績があります。たとえば、過去には『FNNドキュメンタリー大賞』などの硬派な企画にも力を入れており、今後もそうした番組制作への注力が期待されます。
今後登場するであろう新番組には、多様な世代・価値観を包摂しながら、視聴者の内面にしっかり届くような作品が増えていくことが予想されます。「気付きを与える番組」「泣ける番組」「考えさせられる番組」が新たな主流となる中で、“そっと寄り添うテレビ”としての再出発が始まるのです。
■ 視聴者との双方向性が鍵を握る
2024年の今、テレビはもはや一方通行のメディアではありません。視聴者がSNSでリアルタイムに感想や意見を発信する時代において、番組の価値は、その内容だけでなく“どのように受け取られているか”にも左右されます。
ですから、これからの番組制作には視聴者との「共感」や「対話」が不可欠です。感情の機微、社会との接点、人々の生活や経験に深く根ざしたストーリーこそが、視聴者の心を動かします。フジテレビがこの視点を持って番組を作り続ければ、再び多くの視聴者の信頼と関心を取り戻すことができるでしょう。
■「楽しい」から「意味のある時間」へ
フジテレビが掲げた“楽しくなければ”からの脱却。それは言い換えれば、「意味のある番組」「心に残る時間」を提供するという志の表れでもあります。
私たちがテレビに求めるものは、必ずしも笑いだけではありません。ときには安心感、ときには共感、またときには新しい価値観との出会い。そうした時間が、一人ひとりの視聴者にとっての「楽しい」に変わっていくのかもしれません。
テレビは依然として、家族が共にくつろぐ場所に存在するメディアです。そんな中で、世代を越えて心が揺さぶられるようなコンテンツが増えていくことを、私たち視聴者もまた期待しているのではないでしょうか。
今後のフジテレビの挑戦に注目しながら、わたしたちも「楽しさとは何か」を改めて問い直してみる機会として、この記事を結びとしたいと思います。