「倍速視聴批判」発言で再び注目の高橋源一郎氏――作品と思想、そして現代社会へのまなざし
新たな波紋を広げているのは、作家・評論家の高橋源一郎氏による「倍速視聴」への言及である。これは、映画やアニメなどのメディアコンテンツを通常の速度よりも速く再生して視聴する新たな習慣に対して、「倍速で観てるってやめてもらえますか?」と公然と語ったことが発端だった。この発言に対し、SNSや各所で賛否が飛び交い、再び高橋氏の思想やメディア観が注目されている。
倍速視聴の是非は、単なる映像コンテンツの楽しみ方にとどまらず、現代社会が抱える情報過多や時短志向とも密接に関係しており、議論は思想的な次元にまで広がっている。本記事では、この議論の中心にいる高橋源一郎という人物に焦点を絞り、その思想の根底にある文学観・社会観を紐解くとともに、倍速視聴に対する彼のスタンスが何を意味しているのかを読み解いていきたい。
作家・高橋源一郎――異色のキャリアと文学への愛
1951年、広島県尾道市で生まれた高橋源一郎は、一橋大学卒業後に作家としての道を歩み始める。大学での専攻は経済学だったが、在学中から文学や思想に強い関心を持ち続けていた。1981年には『さようなら、ギャングたち』でデビュー。この型破りなポストモダン小説は、一挙に文壇の注目を集め、当時の日本文学に風穴を開ける存在となった。
以後、『ジョン・レノン対火星人』『優雅で感傷的な日本野球』といった作品を次々に発表し、既存の物語や価値観を解体し、再構築するその文体と思想は、一部では「ニューアカデミズム」と銘打たれた思想潮流とリンクしながら、若い読者を中心に熱狂的に支持されるようになった。
また、彼はこれまでに芥川賞選考委員を務め、現在は法政大学文学部の教授として若い世代に教鞭をとるなど、批評家、教育者としてもその活動領域を広げている。テレビのコメンテーターとしてもたびたび登場しており、その博識と物腰の柔らかさから、幅広い層に親しまれてきた。
コンテンツ消費社会と「意味の圧縮」
高橋氏が今回の発言で問題にしたのは、単なる視聴スタイルへの違和感というより、「時間をかけて味わう」という文化的営みの崩壊への危惧であろう。彼は「物語はじっくりと受け取られるべきものであり、倍速視聴は作り手と受け手の間にある『時間の共有』を断絶している」と考えている。言うなれば、芸術や表現において時間とは単なる流れではなく、最も大切にすべき媒介であるというのが、高橋源一郎の文学的信条なのだ。
倍速視聴文化は、とかく情報を「効率的に」処理することに焦点が当てられている。そこには「感情の受容」よりも「情報の獲得」が優先されており、作品は「消費」される対象になっている。これは、高橋氏が一貫して批判してきた「意味の圧縮」への傾向と重なる。
高橋氏は『言葉ってやつは…』や『人生相談。』などのエッセイのなかでも、言葉や表現が本来持つ「間」や「余白」の重要性を何度も指摘してきた。それはつまり、物語や感情は一気に流し込んだだけでは伝わらない、ということであり、また逆説的には作品の受容にも受け手側の「努力」や「時間」が必要であるという、古典的ながらも今日では見落とされがちな視点である。
議論の本質は「誰の自由か」
もちろん、倍速視聴については「視聴の自由」という立場から擁護する声も多い。「自分の好きなペースで観ればいい」「内容を理解することが中心なら問題ない」といった意見は、デジタル時代の自由裁量を象徴するものだろう。だが高橋源一郎は、「本来、表現は自由であると同時に責任をも伴うものであり、それを享受する側にもまた尊重と理解が求められる」という、表現者としての倫理観を持ち続けているといえる。
彼のこの発言は、そのような思想の文脈の上にある。「作者の意図やリズムを考えず、ただ情報だけを取り出すことは、文学や映像表現の本質を損なう恐れがある」と語るその言葉は、作り手としての、そして長年教育に携わってきた批評者としての、真摯な警告である。
終焉なき問いかけ――変容する時代のなかで言葉を手放さないということ
高橋源一郎は、一貫して「今、この時代における言葉の力」を信じてきた作家である。それは、たとえ時代が変わろうとも、人が人である限り、文学や言葉が果たすべき役割は終わらないという信念に根ざしている。
今回の倍速視聴発言に反発する声も少なくない。だが、そうした反応すらも、高橋氏にとっては「対話」の一種なのだろう。事実、彼は一方的な決めつけではなく、常に「なぜそう感じるのか」「それはどうしてか」と問いかけを続ける人物だ。だからこそ、読者や視聴者もまた、彼の一言に対して向き合ってしまうのではないだろうか。
文学とは、本来、忙しない日常の隙間に生まれるものだ。それは拙速ではなく、わずかな休止符の中に宿る響きのようなものである。その中で呼吸をし、想像力を膨らませることが、作品を本当に味わうということなのかもしれない。
したがって高橋源一郎の今回の発言は、単なる見解にとどまらない。これは、言葉や表現、そして人としての「感じる力」を、もう一度取り戻すための呼びかけである。倍速では感じ取れない何かを、我々はきっと忘れかけている。それを、今あらためて問い直すタイミングなのかもしれない。
「せめて一度くらいは、作品と同じスピードで時間を過ごしてみて欲しい」。その言葉には、これからも変わろうとする世界の中で、変えてはいけないものがあると語る、高橋源一郎からの静かなメッセージが込められている。