2005年4月25日。多くの人々の記憶に深く刻まれている日です。兵庫県尼崎市で発生したJR福知山線の快速電車脱線事故。この事故では、乗員・乗客合わせて107名が犠牲となり、およそ560名が負傷するという、戦後最悪の鉄道事故の一つとして知られています。あの日から、今年で20年の月日が経ちました。
それでもなお、毎月その現場に足を運び、供養の写真を撮り続ける一人の男性がいます。彼の名は上田浩之さん(58)。上田さんは、当時当該列車に乗っていて犠牲となった妻・久美子さんを20年前に亡くしました。この20年間、彼は毎月25日に必ず事故現場を訪れ、花を手向け、デジタルカメラで現場の風景を写真に収め続けています。
失われた日常と、続いていく祈り
事故で妻を亡くした当時、上田さんには2人の小学生の娘がいました。突然母を失った娘たち、伴侶を奪われた自身の心の中には、言葉にできないほどの喪失感があったことでしょう。それでも彼は、残された家族のために、そして自分自身の心の安らぎのために、祈りとともに写真を撮るというルーティンを続けてきました。
「なぜ撮るのか?」という問いに、上田さんはこう答えます。
「忘れることが怖かった。自分の中で、あの事故がただの記憶になってしまうのが怖かった」
写真を撮るという行為は、単に風景を映し出すだけでなく、その時々の「想い」や「記憶」も閉じ込めることができます。月日が流れても、その場所に立ち、レンズ越しに感じる風や光、空の色に、上田さんは亡き妻とのつながりを感じているのかもしれません。
変わりゆく現場、変わらない祈り
事故現場には、2018年に事故の記憶と思いを伝える「祈りの杜 福知山線列車事故追悼施設」が開設されました。追悼施設内には事故で犠牲となった方々の名前が刻まれたプレートや、当時の状況を伝える展示、被害者や遺族の想いが綴られたメッセージがあります。
施設開設により、慰霊や記憶の継承という形は変わってきましたが、上田さんの想いはずっと変わっていません。年を重ねながらも、毎月25日の朝に現場へ向かうその背中には、亡き妻への愛と、事故への鎮魂の思いが静かににじんでいます。
写真に込められた想い
上田さんが撮った写真の中には、四季折々の現場の姿があります。春には桜が咲き、夏には鮮やかな光が差し込み、秋は紅葉が色づき、冬には静寂が覆います。変わりゆく自然の中で、形を変えながらも存在し続けるのは、亡き人への「想い」です。
これらの写真は、毎年の月命日に一冊ずつフォトブックにまとめられており、その数は現在までに20冊にも及びます。それはまるで、亡き妻と共に歩んできた20年という歳月の軌跡でもあります。写真1枚1枚には、当時を思い出すエピソードや、その日その場所で感じた想いが記されているとのことです。
悲しみから結ばれたご縁
上田さんの活動は、次第に他の遺族や支援者たちの心にも届き、今では数名の仲間とともに現場を訪れ、追悼の想いを共有しています。最初は一人で静かに行っていた行動が、今では“心の結びつき”となって広がりを見せているのです。
その中には、事故をきっかけに出会った人たち、支援活動を行ってきたボランティア、地元の住民などがおり、事故から20年を迎えた今なお、記憶を風化させないための大切な礎となっています。
事故を忘れないということ
鉄道事故は、技術や運行体制の安全性など、多くの教訓を私たちに与えました。しかし、人間の「記憶」は時とともに薄れがちです。あの日、何が起きたか。そして、なぜ起きてしまったのか。あの悲劇の裏側にどれだけの人の人生があり、どれだけ多くの涙が流されたかを私たちはしっかりと受け止め続けなければなりません。
上田さんのように、心の奥底から“あの日”と向き合い続けている人がいることを知るだけでも、私たちは何を忘れてはならないかを思い出させてくれます。それは、犠牲となった人々の人生の意味を再確認し、今の社会が彼らの犠牲の上に築かれているという真実に気づくことでもあります。
希望の光もまた、受け継がれる
上田さんは、これからもこの活動を続けていくと語っています。娘たちもすでに成人し、父の活動を支える存在になったとのこと。今では月命日に共に現場へ足を運ぶこともあるそうです。こうした家族の絆、そして悲しみを通して育まれた“新しい日常”には、深い敬意を感じざるを得ません。
誰かを失った悲しみは、決して癒やされるものではありません。しかしその痛みと共に生きていく中で、少しずつ“光”を見出すことができるのだと、上田さんの姿は私たちに教えてくれます。風景を撮る写真には、静かに寄り添い、生き続ける力が宿っているのです。
社会全体としても、事故の記憶が風化しないよう、教育や報道など様々な形で意識を寄せることが求められます。個人の祈りと、社会の記憶。このふたつが重なり合ってこそ、真の意味での「再発防止」や「安全文化の継承」が実現できるのではないでしょうか。
最後に
事故から20年という節目が巡っても、大切な人を失った痛みは決して過去のものとはなりません。しかしそこには、人として生きる上での根源的な想い、「愛」や「祈り」が確かに存在しています。上田さんの20年間に及ぶ月命日での写真撮影と供養の行動は、私たちが人と人とのつながり、そして記憶をどう継承していくのかを静かに問いかけています。
記憶は風化するものだと言われます。しかし、想いは続きます。それを形に残す人がいれば、きっと次の世代へと受け継がれ、その先に新たな“希望”が生まれるのでしょう。事故を知らない世代にも、上田さんの写真と言葉、そして生き様が静かに、しかし力強く届いていきますように。