2024年6月、札幌市で発生したいわゆる「クリニック院長夫婦殺傷事件」は、全国に衝撃を与えました。医療に人生を捧げてきた夫婦が、自らの職場で無差別とも言える暴力に晒されるというこの事件は、人々の平穏な日常を突然引き裂く恐怖を浮き彫りにしました。被害を受けたのは、札幌市豊平区にある内科クリニックの院長・古川健司さん(52歳)とその妻・香織さん(49歳)。そして加害者とされているのは、古川夫妻のクリニックに通院歴があったとみられる無職の男・石山清隆容疑者(59歳)です。
本稿では、この事件の概要とともに、被害に遭った古川夫妻のこれまでの歩み、そして日本の医療現場の課題や医療従事者が直面するリスクについて考察します。
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事件が起きたのは6月3日午後。札幌市豊平区の住宅街にある古川内科クリニックでは、午後の診療が始まったばかりの時間帯だったといいます。突然、石山容疑者は受付を通さずクリニックに押し入り、刃物のような凶器で院長の古川健司さんと妻の香織さんを襲ったとされます。その場にいた職員が110番通報し、警察と救急隊が迅速に駆けつけましたが、健司さんは腹部などを複数刺されており、病院搬送後に死亡が確認されました。妻の香織さんも首などを切られて重傷を負い、一時は意識不明の重体となりましたが、現在は集中治療のもとで容体は安定していると報じられています。
なぜ、このような悲劇が起きたのでしょうか?警察の捜査によると、石山容疑者と古川院長夫婦との間に何らかのトラブルや恨みがあった可能性があり、その解明が進められています。捜査関係者の一人によれば、石山容疑者は過去に心療内科などへの通院歴があり、精神科的なケアの対象だった可能性も示唆されています。ただ、それが今回の犯行の動機に直結するかは、慎重な調査が必要です。
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さて、本事件の被害者となった古川健司さんは、北海道大学医学部を卒業後、総合内科を専門に30年近くにわたり地域医療に携わってきた人物です。地元では「町の頼れる先生」として知られ、患者との信頼関係を非常に大切にしていたと言われています。出身は札幌市で、地元愛も強く、自らのクリニックを開く際には「地域の高齢化に備え、生活に根差した医療を提供したい」と語っていたそうです。また、一部報道によると、医療だけにとどまらず、ボランティア活動にも関わり、地元の福祉施設への定期的な往診や健康相談の実施など、地域と密接に関わっていたといいます。
妻の香織さんもまた看護師として長年医療現場に立ち、結婚後は夫のクリニックを支える看護師兼事務長として運営に尽力していました。患者対応、医療安全の管理、経営実務までこなす“縁の下の力持ち”であり、クリニックを訪れる人々には「笑顔の素敵な奥様」として親しまれていた存在でした。医師と看護師という専門職の夫婦が、自らのライフワークとして築き上げた診療所が突然の暴力によって壊されるという事実は、あまりにも痛ましく、悔しいとしか言いようがありません。
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こうした事件は、我々が“当たり前”と感じている医療の現場が、決して安全な環境でないことを改めて示しています。近年、医師や看護師に対する患者やその家族からの暴言、暴力は社会問題化しており、日本医師会や医療団体は「医療従事者に対する暴力・ハラスメント防止」の取り組みを各所で始めています。厚生労働省の調査によれば、医療従事者の約30%以上が「過去1年以内に患者や家族から何らかの暴言・暴力を受けた」と回答しており、特に精神科や救急外来だけでなく、一般の地域医療機関でも深刻なケースが報告されるようになっています。
事件のあったクリニックのように、小規模な医療機関ではセキュリティ機能の導入が後回しになりやすく、警備員の常駐はもちろん、監視カメラの設置すらもコスト面の問題から十分ではないことが多いのが実情です。医療現場の安全を確保するためには、国や自治体による補助制度の見直し、医療施設向けの緊急通報システムの普及、さらには職員への暴力対策研修など、制度的な支援が強く求められています。
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一方、今回の事件が発生した背景には、加害者とされる人物の精神状態への社会的対応の課題もあります。仮に容疑者が適切な精神医療の支援を受けていなかったとすれば、それは本人にとっても社会にとっても不幸な結果を招く一因です。日本では精神科医療のアクセスや地域支援体制がまだ十分に整っておらず、症状の重い患者に対するフォロー体制が家族や本人の努力任せになってしまうケースが少なくありません。この点においても、医療・福祉・行政が連携し、継続的な支援体制を構築することが急務です。
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最後に、古川健司さんと香織さんのこれまでの仕事、生き方は、まさに「医療は人のためにある」という信念に貫かれていました。慣れ親しんだ地域で、生活する人々の健康を守り、笑顔と安心を届ける日々。しかし、その尊い努力も刃物一本で奪われかけるという現実は、あまりにも理不尽で、悲しみに満ちています。
にもかかわらず、香織さんはいまも生命の危機を乗り越え、医療スタッフの懸命な治療のもと静かに回復を続けていると報じられています。その姿は、夫婦二人三脚で紡いできた地域医療の志を、決して無駄にしないという強い意志のようにも感じられます。
人を助けたいという医師や看護師の志を、私たちが守るには何ができるのか。今回の事件をただのニュースとして終わらせず、医療現場の安全性について一人ひとりが考えること。そして、心の不調を抱える人へのより良い支援の仕組みづくりを進めること。それが、古川夫妻の思いに応える第一歩になるのかもしれません。